皆さん、兵馬俑へようこそいらっしゃいませ。兵馬俑は秦の始皇帝が自分の陵墓を防衛するために作った殉葬用ものです。ですので、兵馬俑といえば、皆さんは秦の始皇帝を思い浮かべるでしょう。それでは、秦の始皇帝は一体どんな皇帝でしたか。まず、私が秦の始皇帝についてのストーリーを教えていただきます。それはふんふょうこうじゅです。 焚書・坑儒(ふんしょ・こうじゅ)とは、中国を秦王朝が統治していた時代に発生した思想弾圧事件です。焚書・書を燃やし、坑儒とは、儒者を生き埋めにするの意味です。 紀元前221年,秦の始皇帝が当時他の六つの小さな国を統一して、歴史上で中国が成し遂げました。 しかし、それ前の長年の戦争のせいで、社会が意識上で混乱していました。各流派はそれぞれの思想を主張していました。皇帝として秦の始皇帝は法家思想(法は法律の法です)。名前を聞いても、その流派は厳しい法律を主張しています。ですから、秦の始皇帝のいろんな施政方針は暴政とみられます。例えば、皆さんがご覧になっている兵馬俑は27万の職人をあつまって作ったものです。なおに、当時の秦王朝の人口は2千万人に過ぎない。つまり、自分の陵墓のために国民の十パーセントを利用しました。 法家、その流派のもう一つ主張は郡県制によって中央集権制国を創立することです。しかし、当時広い範囲で広がっている思想は儒家の思想です。儒家は秦王朝の前につかっていた封権制で国を統一すること主張しました。それで、儒家思想は当時統治者が必要な思想に正反対です。 『史記』によると、紀元前213年、儒家思想を主張した博士(いまの博士ではなく、秦時代の役人の地位のひとつです)淳于越は秦の始皇帝に直接郡県制を批判しました。丞相の李斯は、儒者たちが過去の王朝によって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。これにより、民間人が所持していた書経・詩経・諸子百家の書物は、ことごとく郡の長官に提出させ、焼き払うことが命じられた。李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。これはふんしょです。 坑儒とは紀元前212年咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺したことです。秦の始皇帝は長生きを熱心に求めている皇帝です。そして、彼は全国から職人を集めて長生き効果をもつ薬を作らせました。そのなかで、卢生と侯生という二つの人がいます。でも、彼たちは薬を作るになにもわからないです。時間を経つとともにとだんだん秦の始皇帝に見破れました。なおに、彼たちは儒家の思想によって始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難するという噂が起きました。ですので、秦の始皇帝は激怒しました。彼たちの出身地咸阳にいる儒者を逮捕して生き埋めにしました。 このようなストーリーを聞いてから、皆さんは秦の始皇帝は完全の暴君と思われるかもしれませんか、実際はかれも中国の統一に大きな貢献をしました。例えば、彼は中国の土地だけではなく、度量衡や、文字も統一させました。その原因で、秦の始皇帝についての評判は中国においてもいろいろな説があります。はい、以上です、もし皆んさんは秦の始皇帝に興味があれば、ぜひまた西安市兵馬俑博物館に来てください。 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/f9f67cc9b0717fd5360cdc74.html