ドロップアウト1 甘い爪痕 原作:佐々木禎子 (ささき ていこ) イラストレーション 実相寺紫子(じつそうじ ゆかいりこ) 1 薄汚れたガラス窓の鉛色の空が見える。 身体も心も重たくなるような曇天。能瀬修哉は読んでいた本を傍らに置き、ため息をつく。こざっぱりとした白衣のなかで細い身体が泳いでいる。のびた前髪がうっとうしくて、指先でかき上げた。 一階に寂れた喫茶店のはいった古いビルの二階。殺風景で愛想のないだだっ広い室内には、診療台と医療器具かれている。無免許の医師がやっている認可されていない診療所だ。理由ありの、保険外の患者たち―おもに暴力団構成員たちが、修哉を頼ってやってくる。 もっとも、医師の資格しゅとく取得直前でドロップアウトした修哉にできる医療といったら限られたものだが。それでも訪れる患者たちに鍛えられて、外科手術だけはぐんぐん上手くなってきている。 ここに隠れ診療所を構えて三年が経過していた。口コミで「あそこに免許はないけど、医療行為をしてくれる奴がいる。」という噂が広がる、いつのまにか修哉の診療所はチンパラたちのオアシスになっていた。 白衣の堕天使がいる―と、新宿歌舞伎町界隈の、組の連中に噂されているときいたときは、さすがに天を仰いで絶句したものだ。二十八歳の男をつかまえて、堕天使ってのはどういうセンスだ。 とはいえ、そんなチンピラたち―さらには暴力団の上の連中に気に入ってもらえたことで、修哉はいまかろうじで生きているのだ。なんと噂れようと、あだ名をどうつけられようと、笑って受け流していられる。 実際、金のかかる麻酔剤をはじめとする薬品や、消耗品の医療器具については組の連中に都合をつけてもらい、補っている。 自分の人生、どうしてこんなことになったんだっけ。 こんなふうにポカリと暇になったときなどに、修哉は、窓の外の景色を眺め、ぼんやりと思うこともある。 大学を退学し、親もとから離れ、行方不明になった時点で、医者になることなんてあきらめていた。そもそも修哉は、家族親戚にやたち医師がいることで、なんとなく流されて医大にはいっただけの、成績だけが優勝で世間しらずのおぼっちゃまだったのだ。厳格な父親にいまの無免許医師の姿をみられたら、なんと言われることか。殴り飛ばされ、壁に叩きつけられるだろう。かつて修哉は親にはむかったときのように。 あの時痛んだのは、はられた頬より、壁に当たった背中より―心だったなと思い返す。あの日、なけなしの自尊心が粉々に砕け散った。 エリート街道をのし歩いてきた父は、修哉が男とつきあったことが許せなかったようだ。恥さらしだと嘆かれた。しかも同性なだけでも許しがたいのに、相手は中国の黒社会に所属している男だった。 ―まだあの男とつきあっていたのか。ろくでもないの相手の上に、男だぞ?誰の血を受け継いだんだ、貴様は。俺の息子だったらそんな間違いなどしないはずだ!! 父は、修哉の母の不義を疑っていた。修哉はどこをとっても父に似たところのない息子だった。育つにつれ、ことあるごとに、修哉の資質を試し、学業につけ素行につけ、テストするかのような父のふるまいに対する違和感が、あのひと言ですべて氷解した。 殴り飛ばされた修哉と怒り狂う父の傍らで、青ざめ、なんの反論もせずうつむいた母をみて、そういうことかと自分の立場を把握した。 修哉は、叩いたら埃の出る身体だったというわけだ。 年の離れた姉や兄たちと、扱い差異があったわげではない。それでもずっと抱えていた、不自然なわだかまり。父と母と暮らすことの居心地の悪さ。修哉はずっと子どもなりに、ぎりぎりのバランスを保って、常に気を張りながら家族の一員たるべく努力してきていた。 どこかで、自分が間違ったことをすると、この平穏の世界は転覆するのだと、無意識に知っていたのだ。 それが、修哉が二十三歳のあの日、崩壊する。 転落は、早かった。 自分の実の父親が誰かなんて知りたくはなかったから訊きていない。大学をやめ、家を出て、逃げ出した。しかしどこといって逃げるあてもなく、ふらふらと遊びまわり―たまたま新宿で、遊んで暴れ怪我をした、指定暴力団の組長の息子を見捨てられずに手当てして助けたところから、気づけば無認可診療所持ちの無資格の医師になっていた。医者一族の父の血を、受け継いでいるわけでもないのにと自嘲する。 きっかけをつかんで、場を与えられ、ずるずるとこの場所にと留まっている現在。 いくつかの組が、細分化して陣取りをしている新宿という街なかで、修哉の診療所は中立地帯となっている。それもまた偶然と、縁がうまく修哉を転がした結果だった。 ここで働きだしてから人を手玉にとるのが巧みだと、たまに言われる。優しそうな綺麗な顔をして、どうしていいタマじゃないかとも言われる。褒め言葉だ。 診療所の中で抗争まがいのことをされたときに、顔色ひとつ変えずに外科ナイフを相手に突き刺し、睡眠薬入りの注射針を別の血管にぶすりと突き刺したりした大立ち回りの結果だ。世界中のどんな刃物より、外科ナイフが一番、人体を切り裂くのには向いているのだ。 その根性のすわり方が気に入ったからと、いくつかの組からお誘いがきたが、すべて断った。かわりに今後とものご贔屓を願い、さらに中立地帯としてここでやっていくために必要な設備投資の費用を少し負担してもらった。 修哉の回想を断ち切ったのは、デスクの下に仕込まれた小型テレビに映った人影だ。 「……嘘だろう」 忘れられない男が、そこに映ったいる。 でも―人違いだろうか。似ている他人? いや、まさか。誰よりも人目を惹く独特の美貌。あんな男は、世界にふたりといない。 この診療所に来るには、まずあちこちの組と取引がある情報屋の 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/ac0662f0f90f76c661371ad3.html